33の余談

余談を楽しむ人生を。

死における、緑ゾーンの人たち

最近ふと死について考えることがあった。

先々月、愛猫がこのを世去ってしまったことや、お葬式に参列したことの為だと思う。

 

思い出すのは10年前に祖母が亡くなった時のことだ。

80歳だった祖母は その日デイサービスから帰ってきてしばらくした後 庭で倒れているのが見つかった。すぐ救急車を呼び、救急隊員の方々が蘇生を試みたものの、残念ながら目を覚ます事はなかった。顔はただ眠っているようで、苦しまず逝ったであろう事が私にもわかった。近所のおばあちゃん達から「私もあんなふうに逝きたい」と言われるほど、私もそう思ってしまうほどまさに「ポックリ」という死に方だった。

 

死による衝撃と悲しみは、周囲に広がっていく。

震源地は本人だ。一番ダメージを受けるのは家族や近しい友達等。赤ゾーンにいる人だ。次は黄色ゾーンの人、本人の知り合い、または親族と親しい人。本人に直接思うところはなくても、親族の悲しみに心を痛める人。その周りが、緑ゾーンの人。死そのものに悲しみは覚えるものの、その人の死だからというわけではない「そうなんだ、それは残念だったね」と思う程度の関係の人。

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祖母の死により、赤ゾーンにいる私たちは悲しみとともに通夜葬儀の準備等やることに襲われる。特に母は軽くパニックになっていたと思う。私自身は、祖母の死に悲しみはあったものの「ついにこの時が来たか」という感じであり、黄色寄りの赤ゾーンにいた。祖母の死そのものよりも母の悲しみぶりが辛かった。

 

実家は田舎のため、こういう時は近所の人が手伝ってくれる。母の友人でもある近所のおばちゃん達が、私たちがやらなければいけない事以外の裏方を色々とこなしてくれた。

その際、泣いている母に

「まさえちゃん、大丈夫。私たちが全部やるから、まかせて。大丈夫だよ」

と言ってくれていた。安心して悲しみなさいという事だろう。母ほどではないものの、祖母の死にアワアワとしていた自分はそれを見て、なんて頼もしいのだろうと感動し、そしてはっとした。

おばちゃん達は、冷静にやることを判断してこなし、私たちを慰める精神的余裕があるのだ。祖母の死という大きな衝撃にさらされているのは我が家だけで、周りには黄色ゾーンの人も、その周りには緑ゾーンの人もいて、いつもと変わらず仕事をしていたり、テレビを見て笑っているのだ。私はそれに気づき、なんというかものすごく救われた。今日も世界は通常運転だ。心身ともに余裕がある人はたくさんいる。そうでなくては困る。

 

東日本大震災の際、被害に遭われた方々は、最初は衝撃と悲しみに何も考えることができなかったけれど、時間が経つにつれ「バラエティ番組やお笑いを観たい」と思った人が多数いたと何かで見た。しかし周り(被害のない人たち)が「不謹慎」と騒ぎ、なかなかかなわなかったと。被災地の気持ちに応え「ぜひDVDのレンタルを」とツイートしたレンタル店が不謹慎だと叩かれたりもしたという。不謹慎だと騒ぐのはむしろ周りの直接大きな被害のない人達で、本人たちが何を望むのかを汲み取られないのはとても悲しいことだ。

 

悲しみを心にいつまでも自粛していたらそれこそ精神が参ってしまう。どんなに大きな事件があっても、地球の反対側では陽気に踊っている人がいる。緑ゾーンの人は今日も通常運転だ。そうでなくては困るのだ。